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国際プロレス・パイオニア精神の真髄

※このイベントは過去に開催されていたものです。ご注意ください。
流智美の昭和プロレス探究トークライブ 第3弾
国際プロレス”生誕”50周年記念イベント

国際プロレス・パイオニア精神の真髄
(特別ゲスト) 元IWA世界ヘビー級王者 マイティ井上

1966年10月に呱々の声を上げた新興勢力・国際プロレス。
吉原功が残した偉業の数々を振り返ると共に、
旗揚げから崩壊まで、15年の団体盛衰を見届けてきたIWA世界王者・井上が秘話と真相を全公開。

【日時】
2016.4.2(土) 
13:30~ 第1部・2ショット撮影会(サイン色紙付き)
14:30~ 第2部・トークショー
【参加費】
第1部のみ 3,000円
第1,2部 6,000円
【会場・予約】
闘道館 (03-3512-2080 / info@toudoukan.com )
【お申し込み】
闘道館(03-3512-2080 / info@toudoukan.com)まで
「イベント名」「参加希望の部」「お名前」「お電話番号」「人数」「イベントを知った経緯」をお伝えください。

※参加費をお支払いいただいた順に整理券をお配りいたします。
当日、整理番号順でご案内いたします。
【本イベントの記念パンフレット販売のお知らせ】

『国際プロレス”生誕”50周年記念イベント』開催を記念して制作されたパンフレットを限定30部で販売いたします。

<付録> 特別ゲスト・マイティ井上のブロマイド+復刻版「PR紙国際プロレス・ニュース」付

・「国際プロレス・ニュース」は、時代の先駆者といわれた国際プロレス吉原功社長のアイディアで発刊した、マット界初のプロレス新聞。
・第1号が発行されたのは、’69年6月で、内容は1面が豊登、ストロング小林組がパリで初代IWA世界タッグ王者となった試合の詳報、2~4面は、次期シリーズ参加外国人の紹介、渡欧した吉原社長や遠征した豊登の土産話、TV放送裏話などが掲載されている。タブロイド版4ページ。

限定30部・販売価格1,000円
問い合わせ 闘道館


マイティ井上
【マイティ井上】


門馬忠雄
【門馬忠雄】

1938年・福島県出身
プロレス評論家

東京スポーツ新聞社でプロレス記者として主に国際プロレスを担当。
1970年代にはテレビ中継「国際プロレスアワー」の解説者を務めた。
1986年に東京スポーツを退社し、フリーのプロレス評論家として活躍中。
現在77歳。
流智美
【流智美】

1957年・茨城出身
I LOVE 国際プロレス。
国際を誰よりも愛し探求し続けて50年。
パイオニア団体の溢れる魅力をとことん炙り出し、総括する。
【流智美氏「4.2国際イベント」特別寄稿③】 
4.2に迫った国際プロレス生誕50周年記念イベントですが、特別ゲストマイティ井上さんの現役時代の代名詞といえば、サンセットフリップ!
今回はイベントに先駆けて、国際のリングで名勝負を彩った必殺技「サンセットフリップ」について取り上げておきたいと思います。

◇「これが真似できるか!究極の必殺技NOW」復刻版
“この技さえ出せば、必ず場内を沸かせてみせる!”。
自信をもってこう言い切れるレスラーは、そう多くない。その意味では、G・馬場の16文キックと並んで双璧ともいえるのが、マイティ井上のサンセット・フリップだ。
どんなに小さな会場でも、井上がサンセット・フリップを繰り出せば場内は一気に盛り上がる。本連載初登場となる井上の“究極の必殺技”を細かく分析し、その秘密を探ってみよう。
 井上がこの技を初めて披露したのは、昭和47年9月、約2年にわたる欧州、カナダでの武者修行を終えて帰国したときである。
独特のフライング・ヘッドシザースなどで空中殺法には定評のあったレッド・バスチェン相手にサンセット・フリップ3連発でピンフォールを奪った井上は、必殺技開眼についてこう語った。
「カナダのモントリオールでファイトしていた時、エドワード・カーペンティアが使っているのをみて“これだ!”と思いました。巨体のドン・レオ・ジョナサンも似たような技を使っていたので、これも参考にして独自の形を作りあげたつもりです。」
 カーペンティアと井上のフリップには、入り方に決定的な違いがある。カーペンティアが両手を振り上げて反動をつけ、空中で体を丸めて背中のあたりを相手にヒットさせるのに対し、井上は片手で反動をつけると同時に倒れている相手と距離を置いて、自らの腰から尻を叩きつける。
華麗さでカーペンティア、破壊力で井上(但し自爆のダメージは井上流のほうが大きい。)といったところだが、カン高い声での場内アピール度を勝手、わずかに井上に軍配をあげよう。
 井上の場合、オースチン・アイドルのアバラ骨をヘシ折ったストマック・ブロックからロープに飛ばしてのショルダー・アタックの連発、仰向けに倒れた相手にサンセット・フリップという流れるような殺人フルコースを持っており、かつて国際プロレスでIWA世界王者だった頃、AWA王者のガニアからピンフォールを奪ったシーンは忘れられない。
 G・馬場が解説時、よく言うセリフだが、プロレスラーたるもの、「ここ一番」の技を持つべきことを、井上のサンセット・フリップが端的に示している。
(流智美)

サンセットフリップ

●寄稿文2

元々は2010年5月22日の、ノア後楽園ホール大会「マイティ井上レフェリー引退記念興行」の直前に週刊プロレスに掲載されたものですが、4.2国際プロレスイベントのために、今回大幅に加筆し、復刻版として、掲載いたします。
流智美のマイティ井上への半世紀にわたる思いが詰まった渾身の寄稿文。
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現在、ノアの常連として後楽園やディファに行っておられる若いファン層にとって、マイティ井上は「赤いポロシャツに黒いズボンをはいた声の大きなレフェリーだった人」であり、「2001年から2008年まで、日本テレビの地上波中継があったときの辛口解説者だった人」という認識の方が大半だろう。

また、対象を20代後半から30代にかけての読者にシフトすると、それは「全日本でチャボ・ゲレロを破ってジュニアのチャンピオンを張っていた人」であり「晩年の馬場さんのタッグ、6人タッグの試合でパートナーになったり相手になっていた人」となろう。

そして私にとっての井上は、と聞かれれば、それは「生えぬきレスラーとして国際プロレスに最初から最後まで所属した、この世で唯一の生き証人」であり、「証言者」ということなる。



29年前〔1981年8・9〕に北海道・羅臼で解散を余儀なくされ、14年8ヶ月に及ぶ長い活動を停止した伝説の団体「国際プロレス」に第一期生として入門し、最後までフル所属して現在も健在なのは、信じられないことに、もはや井上だけになってしまった

(ラッシャー木村と寺西勇は振り出しがそれぞれ日本プロレス、東京プロレス。共に2年目から国際に合流し消滅まで所属。アニマル浜口は3年目から、鶴見五郎は5年目から消滅まで。ストロング小林は最初から生えぬきで所属していたが8年目で離脱)。

私が初めてプロレスを生で見たのは今から42年前、1968年(昭和43年)3月6日、茨城県スポーツセンターで行われた国際(創立2年目)の『日欧決戦シリーズ』第2戦だったが、その日の前座試合で仙台強(大剛鉄之助)とバチバチの試合で観客席を多いに沸かせていたのが当時18歳、キャリア8ヶ月の井上だった(まだマイティではなく井上末雄)。

試合中やたらとカン高い声を出していたことと、一つ一つの技にメリハリがあり、とにかく思い切りの良い試合っぷりが強く印象に残っている。その年の暮にはテレビ(TBS)にも登場するようになり、翌69年1月には当時の外国人エースだったビル・ロビンソンとも対戦するなど非常に出世が早かったが、井上が海外遠征に出るまでのライバルを一人挙げろといわれれば躊躇なく寺西だ。昭和のプロレス団体には「前座の名物カード」というのが必ずあった。

極論すればそれが団体の『矜持(きょうじ)』、プライドを凝縮したカードのことを指すのだが、当時国際の「矜持カードは?」といわれれば間違いなく井上対寺西だった。

これは「だったろう」ではなく「だった」と断言できる(ちなみに同じ時期の日本プロレスでいえば高千穂対永源、初期の新日本なら藤波対浜田、初期の全日本なら百田対佐藤がそれに該当しようか?)。井上対寺西の黄金カードは国際内部のみならず団体の枠を越え、評判を聞いた馬場さんが旗揚げして間もない頃(73年2月10日・新宿大会)全日本に超異例の「直輸入」したほど。しかもそれが日本テレビの中継枠で流されたのだ〔当時の国際はTBSが独占中継〕。

現在のマットに例えるならば、地上波放送「ワールドプロレスリング」のワク内で、新日本のリングに丸藤対KENTAを輸入してそれが放送される状況を想像して頂ければいい。いずれにせよ、当時いかに井上対寺西というカードのクオリティが高かったかの何よりの証明である。



井上が初の海外遠征に出たのは1970年8月で、行き先は欧州だった。

フランスを中心にドイツ、スペイン、イギリス、ベルギー、スイスといった主要マットは勿論、フランス領だったタヒチ、ニューカレドニア、中近東のベイルートまで遠征しており、21歳の若さで世界を駆け巡る井上の活躍ぶりを専門誌で読むたびに、当時中学生だった私は「あんな小さな体(ご本人に告白してもらったが、当時は172・5センチだったと)なのに、すげえなあ!」と驚き、外国への憧れを膨らませたものだ。

デビュー当時から試合を見てきた私にとって、井上は今風にいえば「身近な等身大のヒーロー」という感じ。
「このまま3年から4年は遠征が続くんだろうけど、きっと今までには全くいなかったタイプのレスラーになって帰国するんだろうなあ!」・・・とばかり思っていた矢先の71年2月、日本を発ってたった半年しか経ってないにもかかわらず、井上は突然、「ワンシリーズだけの一時帰国」を命じられる。

バション兄弟、ビル・ミラー、ザ・クエッション〔3月に亡くなったアンジェロ・ポッフォ〕らAWAの大物がズラリと揃った「AWAビッグ・ファイト」という短期シリーズだったのだが、そのときの経緯について井上はこう語る。

「70年の暮に、吉原(功)社長と阿部さん(レフェリー)がパリに突然来て、『お前、3月に大きな試合を東京で組むから一時帰れ』って言われたんです。
『もうカードも決まってる。これだ』って見せられた紙に書いてあったのがが自分とB・ミラーの取り組みですよ。
『え~~!ミラーですかぁ!?』って感じでしたよ。
あの(力道山を苦しめた)ミスターXですからね!自信ないなあ、って感じだったし、第一まだ日本を出て半年ちょっとですからね。絶対に帰りたくはなかったんです。
でも、事情聞いたら木村さんが金網デスマッチで右脚を複雑骨折して興行的に大変なんだと・・・。社長にそう言われたら逆らえませんよねえ・・・」

この日(1971年3・2東京体育館)について言えば病院から「抜け出した」木村とクエッションによる金網デスマッチが強行されたのだが、それについては1月の「レジェンド企画」で詳しく書いたので重複を避ける。同じ日に日本プロレスが(蔵前国技館で)馬場、猪木対マスカラス、アリオンという売り物カードをぶつけてきたことに対抗すべく、国際は金網デスマッチに加え、バション兄弟のAWA世界タッグ防衛戦(挑戦者は杉山と草津)、井上対ミラーの特別試合という「3大ビッグマッチ」で対抗せざるを得なかったのだ。

だから井上の責任は重大だった。ミラーは当時43歳だったが実力的には全く衰えを見せておらず、アルゼンチン・バックブリーカーとネックハンギング、ニードロップで無敵の強さを見せた。3月3日の小倉大会では当時の国際の看板タイトルであるIWA世界ヘビー級に挑戦し、王者の杉山を完全フォールしてベルトをアメリカに持ち帰っており、ある意味、最もミラーが本領を発揮したシリーズだったかもしれない。

ミラーが井上と対戦したのは杉山に勝つ前日の3・2だったが、井上はミラーのアルゼンチンを空中で切り返してウラカン・ラナ風に丸め込む離れ技を見せ、「あわや大金星!」のシーンも現出。だがネックハンギングの逆襲でイヤというほど吊り上げられたあとに重いニードロップを二連発ノドに叩き込まれて無念のフォール負け。

ただ半年間の欧州武者修行の成果は十分に発揮し、私は負けた井上を見ながら「海外に出るとここまで急激に強くなるのものか!」と感激したものだ。何より、出発前に比較して「逞しさ」が見違えるようで、先輩の草津とタッグを組んだ試合でもリーダーシップは井上が握るようになっていた。

ミラーには負けたがAWA世界タッグ王者の片割れブッチャー・バションとは30分時間切れ引き分け、ザ・クエッションには2フォール奪っての2対1で勝っており、「エースの一角」を占める地位の実力がついたことをキッチリと証明した上で、再び欧州マットでの武者修行を再開すべく日本を離れた。



それからの井上はフランス、ドイツ、更に72年4月には親友アンドレ(当時はジーン・フェレ)の要請で大西洋を渡りカナダのモントリオールへ転戦し、一大レスリング・ウォー(バション派対ルージョー派)の渦中に突撃、バション派の秘密兵器としてカーペンティア、アンドレ、ジョナサンと並ぶ人気物にのし上がる。

遠征の最後をハワイで切り上げた井上は、1972年10月、2年2ヶ月にわたった海外修行を終えて国際のリングに帰還。凱旋帰国の第1戦はシリーズの外国人エース、レッド・バスチェンとのシングル戦で45分時間切れ引き分けの熱闘。

この試合はTBSを通じて日曜夜6時からノーカット完全放送され「井上はここまで強くなったか!」と日本のファンを驚かせた。

そのバスチェン戦から1年4ヶ月後の1974年2月、看板タイトルだったIWA世界ヘビー級ベルトを保持していたストロング小林が、突然のフリー宣言をして国際を離脱する大事件が勃発。前述したように井上と小林は1967年3月、国際の生え抜きとして同期入門した関係である。

「現役のチャンピオンが一方的に会社辞めたら、レスラーばかりじゃなくて、会社の人やその家族はどうなると思いますか?会社のみんなが盛り立てて彼をチャンピオンにしてあげていたわけですから、あのときに彼が取った行動は、今でも許せなない思いです。吉原社長の気持ちを考えたら、とても出来ない行動だったはずです」

離脱については、小林には小林の言い分はあったと思う。
だが実際、小林の離脱によって国際は壊滅寸前の大きなダメージを受けた。

直接小林の離脱とは関係していなかったかもしれないが、6年以上継続していたTBSによる中継が3月一杯で打ち切りとなり、空位となったIWA世界ヘビーのベルトもビル・ロビンソンがAWA地区に持ち去ってしまう(6・3後楽園でR・木村との決定戦に勝利)。「国際もはやこれまでか」・・・・というウワサまで囁かれていた8月16日、9月シリーズに初来日が決まっていたスーパースター・ビリー・グラハムがロビンソンに勝って新王者に就いた、との報が東京スポーツに掲載される。

グラハムに勝利によって断末魔の国際に一抹の光明が差し、そして井上に千載一遇のビッグチャンスが訪れる。9月シリーズの記者会見で吉原社長はこう言った。
「グラハムには、木村でも草津でもなく、井上で行きます!」

その言葉が、井上には
「国際プロレスは、マイティ井上と心中します」と聞こえたという。

「唯一の生え抜き」となった井上にとって、生涯最大の勝負を賭けた試練の1週間が与えられた。

それがB・グラハムの持つIWA世界挑戦3番勝負だったのだ。

「あのときは、小林に対する怒りを闘志に変えて、グラハムにぶつけましたよ。俺が国際を守ってみせる、世話になった吉原さんを、俺が守ってやる・・・そう思いました。男なら、ここで体が壊れてもいい、というくらいの気持ちでしたよ。」

25歳の「小さな巨人」マイティ井上がこのときほど頼もしく輝いていたことはなかった。

第1戦の大分大会(10・1)は2対1で完敗、第2戦の名古屋大会(10・5)も1対1の引き分けで長蛇を逸したが、ラストチャンスとなった越谷大会(10・7)では三本目にカナディアン・バックブリーカーの猛攻で失神寸前に追い込まれながらも逆さ押さえ込みをズバリと決め、大逆転で2対1の勝利!IWA世界ヘビーのベルトの奪回に成功すると同時に、井上は堂々とエースの座を実力で獲得したのだった。

A・猪木がジョニー・パワーズに勝ってNWF世界王座を奪ったときも、G・馬場がジャック・ブリスコに勝ってNWA世界ヘビー級王座を奪ったときも勿論嬉しかったが、『等身大のヒーロー』、マイティ井上がグラハムに勝ったときは別格だった。まるで「自分が勝ったような感情」が移入してきて、高校生だった私は嬉しさの余り躍り上がってしまったものだった。

「プロレスって、レスラーにしたってファンにしたって、好きか嫌いかのどちらか、でしょう?中間(ちゅうかん)ってないですよね。だから素晴らしいんですよ。ボクのプロレス人生に、一時たりとも中間はなかったですよ。43年間のプロレス人生、悔いないです」

5・22、ノア後楽園ホールでマイティ井上の引退テンカウントを聞きながら、私は号泣する。
「号泣するだろう」ではなく、断言で「号泣する」。

若い読者層のも、井上ならびに国際プロレスの偉大なる功績を称え、後楽園で一緒に「涙腺(るいせん)決壊」をお願いする次第だ。

(流 智美)

今回、「国際プロレス50周年」記念したトークショー開催ということで、はるばる宮崎県からマイティ井上さんお越し頂くことに

なりました。是非、この機会に皆様もマイティ井上さんのナマの声をお聞きいただきたいと思います。


さて、まず私にとっての「マイティ井上・シングルベストバウト 10」を列挙してみます。(国際時代の)

1974年10月 スーパースター・ビリー・グラハム
(越谷:IWA世界奪取)
1974年11月 バーン・ガニア
(AWA世界、IWA世界ダブルタイトル)
1972年10月 レッド・バスチェン
(2年2ヶ月の修行後、凱旋帰国第1戦)
1977年3月 ジプシー・ジョー
(蔵前:両者出血多量でKO)
1978年11月 ジャンボ鶴田
(蔵前: 日本テレビ生中継)
1975年12月 ヒロ・マツダ
(武道館:NWA世界ジュニアに挑戦)
1974年9月 バロン・フォン・ラシク
(後楽園の大流血戦)
1974年7月 ホースト・ホフマン
(TV放送!バックドロップで勝利)
1975年12月 ミスター・レスリング
(足立区体育館、ドロー!)
1973年 3月 寺西 勇
(60分を越える死闘!)

(次点 1971年3月 ビッグ・ビル・ミラー 惜敗!)


とにかく私の印象は、「ガイジンと素晴らしい試合を見せてくれる選手」でした。
上の中で映像の素材がなかったのは、8位のホクマン戦(愛知県刈谷市の試合)。毎週、オープニングの場面で見られたバックドロ

ップでホフマンをたたきつけ井上が逆転勝利した試合で、吉原社長はこの試合を見て「IWA世界ヘビーの奪回は草津でも木村でも

なく、井上に託す!」と決意した有名な試合でした。(10月の越谷でグラハムを破り見事ベルトを奪回)。刈谷市体育館のお客様

が「おーーーー!」と歓声を上げた垂直落下のバックドロップで、まさに井上は下克上を果たしていきました。

井上さんの海外武者修行は1970年8月から1972年10月までの2年2か月で(その間、1971年の3月に1週間だけ帰国

しシリーズに参加。またすぐフランスへ)、フランス、ベルギー、イギリス、レバノン、そしてカナダ(モントリオール)と転戦し

たわけですが、当時いわゆる他の日本人レスラーが経験した「アメリカ武者修行」とは全く違う、独自のコースで揉まれた点を特筆

したいと思います。
非常に欧州テイストのユニークなリズムは、まさに上記のサーキットを経た集積だと思うのです。
このへんの苦労話も、4・2 のトークショーで改めてうかがってみたいと思います。 (流 智美)

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